議員リレー随筆
 
 長 男 の 一 人 旅 鈴木やす子
北茨城市議会議員

 私の実家は北海道の真ん中、旭川市である。かつては毎年のように夫の運転で里帰りをしていた。私とまだ小さかったこどもたちは、そのまま旭川に逗留し、夫は勝手に幾日か道内を巡るというパターンが多かった。そのうち、長男も7〜8歳ぐらいになると2日、3日と付き合うようになり、ずいぶんといろんな景色をみてきたようだ。
 その長男は今、高校2年生。磯原の自宅から日立までの通学に自転車を利用している。その勢いが余って?夏休みには、ばあちゃん家で眠っている自転車をもらいに行くと言いだした。父親は「行け行け」とけしかける。本人のスケジュールによれば、20日間の時間がとれるという。
 そして夏休みになり、夫は、下の子どもたち2人とおばあちゃんまで連れて北海道へ出かけていった。夕飯は息子と2人きり。「寝袋は一昨年に旅した時の物があるから、今度はテントを用意しなくちゃ」と言う。「1人分のテントってなかなか無いし、高いや」などといいながらスポーツ店やホームセンターなどを物色している様子。「今年はいよいよ本気かな」と、母親の私ははらはらするばかりだ。
 出かける予定にしていた日の前夜、「今日の大学見学が思ってたより早く終わった。今日のきっぷがまだ使えるうちに出かけるから。寝袋とテントを袋詰めしたバッグを宅急便で旭川に送っておいてね」と言い置いて、息子は夜の9時の電車に乗ってさっさっと行ってしまった。
 遠出していっても、別段何の連絡もない。どこの無人駅で寝ているのか、私もずいぶん慣らされて、連絡のないのは無事の証拠、と思い決めることにしている。それでも、旭川のばあちゃん家に着いたら一報が入った。一晩寝て腹ごしらえをしたら、「まず東に向かってみる」と言う。そうやって出て行った2日目ぐらいから、今日は○○、今は○○とか、定期便よろしく電話連絡が入る。「律儀に電話をくれるのは嬉しいけど、場所だけ言って切れるんだもの、あれは十円玉1個だね」と、兄とは入れ違いに北海道から戻っていた下の子どもたちと茶化していた。

 後で聞いた話でこちらこそキモを冷やしたが、実は出発して二日目ほどの峠道で手痛く転んだらしい。確かに戻ってきてからもその傷跡はやっとかさぶたになったかというほどの傷。「いゃぁ、車が来なくてよかったョ」とこともなげに言うのだが、本人も「これはひょっとして、命をなくすかもしれないことをしているのかな」と感じたという。だから、せめて居場所ぐらいは知らせておいた方がいいのかと考えたらしい。以前から、学校からの帰り道に遅くなる時は連絡してねと強く言ってみても意に介してはいなかった子が、実体験で学んだようだ。

 ある夕方、1日のうちに珍しく2度3度と電話が来た。夕方電話を受けた私に息子は「今、標津の高橋さんというお宅にいるんだ」という。“高橋・たかはし・タカハシ・・・” 北海道をいろいろと回っている夫にそういう名前の知り合いがいたかなぁ、と私の頭の中はぐるぐる回る。「声をかけてもらって、今晩ここに泊めてもらうことになったから」。あらっ、赤の他人様! 電話口をかわってもらうと、相手様は「本人はもう少し走りたかったみたいですけど、雨も降ってきたし、家に寄って行きなって言ったんです」と気さくな様子。受話器にむかってひたすら頭を下げ、「本当にありがとうございます!お世話になります。」と言うばかり。
 そんな一晩もあったが、その後は大体テントで夜をあかしたらしい。一度はあんまりガサゴソ聞こえるのでクマが怖くなり、張ったテントの位置を変えたこともあったとか。とにかく暗くなっては道路端にテントを張り、トラックがうるさくなる3時過ぎには目が覚めて、夜露でびっしょりのシートをたたみ、自転車にまたがり、山を越え、向かい風に煽られながら海岸線を走ったという。「登り坂はつらいけど、後から下り坂があるからまだいいんだよ。報われないのは向かい風だよ。後から追い風になるという保証はもちろんなくて、ただ大変なだけなんだ」とは、経験したものだけが言葉にできる実感にちがいない。
 北海道の屋根・大雪山連峰の層雲峡を越え、美幌峠を越え、裏摩周から知床を回って北上、宗谷岬から留萌へと南下し、旭川に戻っるまで8日間。着くなり「何か食べるものある? 冷ご飯でいいから」と私の母を慌てさせたらしい。食事をコンビニに頼ったチャリダー(自転車での旅人)にとっては、北海道北部の道などは店が少ないものだから、空腹を抱えて走ったこともあるようだ。「食欲とは別に、米欲っていうのがあるんだ」とのたまう。
 旭川でしっかり腹ごしらえをし、自転車の点検をして、今度は函館までさらに3日をかけて南下をしてきた。函館〜大間間のみフェリー、後はひたすら自転車を漕いできた。東北を4日かけて縦断して帰宅前日の夕方、「どんなに遅くなってもご飯を食べたいから、明晩よろしくね」と電話があった。台風と遭遇しやしないかと、こっちはさすがにはらはらしながら居たが、いつもの学校帰りとおなじように無事に家の庭に入ってきた。ちょっと痩せて、そして顔は真っ黒にして。
 旅の来し方は、本人は、ひとしきり旭川でばあちゃんにも話したし、ところどころで友達にハガキも書いていたようなので、それほど家で話すわけでもない。翌朝、予定に入っていた模擬試験を受けに、自分と一体と化したサドルにまたがって、いつもどおり日立の学校に向かって行った。
 きっと感じただろう風の心地よさや荒々しさ、光の暑さや、そぼ降る雨の冷たさ、空の青さの違いに、漆黒の暗さ、ひもじい思いも、そして「もう少し漕ぎたかったんだけど、ぜんぜん脚があがんなくなっちゃって」と味わった限界、どれひとつとっても誰のものでもない、本人が自分の身体に感じ取ったものだ。彼の身の内で体感した宝物だ。それを想うと、「ここに居れば、おいしいご飯は食べられるし、雨露しのぐ寝床はあるのに」とぶつぶつ言っていた母親でも、とても羨ましい気持ちにさせられる。
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 ひたすらこぎ続けたこの夏の経験。今の日本は、親が見えないところへでかけていっても、ひとまず治安の保証はある。人の情けもかけてもらえる。そういう社会を維持していく責任は私たち大人にはあるはずだ。冒険ができ、いっぱい宝物を見つけられる青年達に、銃など持たすことなど絶対にあってはならない。隣の家の息子さんが銃を持って人の国に乗り込んでいくなど、もってのほかだ。子どもたちが安心して一人旅を謳歌できる社会を作っていくことは、大人の責任だということも改めて感じさせられた夏だった。
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